有楽町の歴史


有楽町上空

一般に言われているいる説によると、江戸幕府の開府の際に織田信長の弟、織田長益(有楽斎)が徳川家康より数寄屋橋御門周辺の土地を拝領し、屋敷を設けたということから、この辺りを「有楽原」(うらくはら)、「有楽ヶ原」(うらくがはら)と呼ぶようになり、明治時代に「有楽町」という地名が名付けられたと言われているそうです。 (この時に読みも「ゆうらくちょう」に改められたらしい)ところが、織田有楽斎は、生涯のほとんどを上方で過ごしており、江戸に屋敷を拝領したという記録も現存していないらしい。 そもそも、幕府が成立する前、豊臣氏に縁の深い外様大名に、大手門近くの重要地を拝領したというのは疑わしいと言われている。 むしろ、江戸幕府開府期には、この辺りまで海が入り込んでいた(日比谷入江)ことから、「浦原」「浦ヶ原」から転じたのではないか、という説もあるそうです。 その後1707年には南町奉行所が開設されたそうです。 時は過ぎて明治時代に入ると、1910年には山手線が延伸され、有楽町駅が開業しました。 1933年に日劇が、1934年に東京宝塚劇場がオープンし、有楽町は「劇場街」となりました。 また、毎日新聞社、朝日新聞社の本社と読売新聞社の有楽町別館が置かれ、その界隈は「新聞街」と呼ばれていたそうです。 その頃の有楽町とはまだ庶民には遠い存在だったようです。 そして戦後には続々と映画館が誕生しました。 1954年に深夜放送「オールナイトニッポン」でおなじみのラジオ会社、ニッポン放送が本社を設け、1957年にはそごう東京店がオープンし、そのキャンペーンソングであったフランク永井の歌う「有楽町で逢いましょう」が大ヒット、有楽町の名を全国に広めました。 1981年から有楽町の顔とも言えた朝日新聞社と日劇の建物が解体され、1984年に有楽町マリオンがオープンし、新たなシンボルが誕生しました。 2000年には有楽町そごうが閉店し、新たにビックカメラがオープンしました。また、有楽町駅前の再開発が行われ、2007年には丸井が核店舗としての入店する新ビル「有楽町イトシア」がオープンしました。

有楽町歴史絵巻
第1回 「地名の由来と江戸時代」
第2回 「明治期〜昭和期 終戦前後の有楽町-3つの事柄」
第3回 「終戦後、復興に湧く有楽町」
第4回 「結び〜そして新たな歴史絵巻物語を彩る有楽町へ」

最近の有楽町


最近の有楽町

さて、東京カレー屋名店会が出店する「有楽町イトシア」が10/12にオープンするわけですが、実は今年の秋は有楽町・銀座では大型商業施設の開業や改装が相次いでいるのです。 特に「有楽町イトシア」のすぐ近くの銀座2丁目、3丁目のマロニエ通り周辺と有楽町駅前です。 マロニエゲートが開業し、プランタン銀座が大規模な改装を行い、来街者が急増している中で、丸井が核店舗となった有楽町イトシアのオープンです。 実際にこの1年でこの界隈で広がった商業面積は約43,000u。これはプランタン銀座、西武百貨店有楽町店、有楽町阪急の合計売り場にほぼ匹敵する広さです。 2000年に閉店した有楽町そごうのあとに「ビックカメラ」がオープンし、今まで百貨店の時にはあまり立ち寄らなかった男性サラリーマンが平日の昼間からたくさん来店し、圧倒的な集客力を誇り、以前とは違った顔を見せたのに対し、この秋の新店開業や改装ラッシュは20代〜30代の女性を多数集めています。 今まで「大人の街」、「上質感や高級感」といったイメージあった銀座が新しい商業施設の相次ぐオープンによって若い感性を持った新たな客層を集めそうです。 今までは銀座4丁目を中心に中央通りの百貨店で年配の女性客が多かったのですが、今後はこの界隈の特徴として買い回り性に富んでいるということもあって、買い物の楽しさが増えた有楽町から銀座まで回遊する人が増えることになりそうです。 歩道が広く、一方通行が多く安全で歩きやすい。映画館が集中し、しゃれた飲食店も多く、エンターテイメント性が強いこの街が今注目です。